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クオリティフォーラム2024 登壇者インタビュー

老舗に学ぶ企業変革とクオリティ追求

「豊国酒造の変革:「地酒」を追求して」

豊国酒造合資会社(福島県古殿町)
代表社員 兼 醸造責任者の
矢内 賢征氏に聞く

聞き手:藤元 正(フリージャーナリスト)
矢内 賢征 氏
矢内 賢征 氏
豊国酒造合資会社
九代目蔵元
1986年生まれ。
2009年に早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、家業である豊国酒造へ入社。
2010年12月に新ブランド“一歩己(いぶき)”立ち上げ後に、2011年の東日本大震災を経験。
その後、2016年醸造責任者である杜氏(とうじ)就任、2021年7月に九代目代表就任。
さらには2022年9月にフルドノアートディステラリクトを設立し代表に就任する。
酒造り・蔵創りを通じて、町のこれからを醸すことに奮闘中。

1. 創業194年の蔵元の9代目

――1830年(天保元年)創業でもうすぐ創業200年を迎えます。その伝統についてはどう考えていますか。
矢内:2021年7月に35歳で父(矢内定紀現会長)の後を継ぎ、代表社員兼醸造責任者に就任しました。家族の中で蔵元を代々つないできて9代目になります。創業の年数から捉えると長いよねと言われるのですが、伝統の重さはそれほど感じていません。結局1人1人がやってきたことを襷(たすき)のように受け渡しする中で194年間続いてきたわけですので、その歴史の重みを僕が背負っているというより、ただただ今を楽しんでいるようなところです。とはいえ、受け継いだ襷は自分の代で終わらせることなく、誰かにつないでいきたいという気持ちはあります。
――高校卒業後に上京して早稲田大学経済学部に進学しました。家業を継がずに普通に就職するつもりだったのですか。
矢内:そのつもりでしたね。実家を出たい、東京に住んで働きたいという気持ちしかなかったので、東京で働けるのならどこでもいいという、浅はかな考えを当時は抱いていました。就職活動でも最終面接が何社で何社から内定もらえそうと、就活ゲームみたいなことをやっていたのです。ところが久しぶりに会った友達が明確な将来像を持ち、真剣に就活している姿に自分がとても空虚な人間だと思えてきて、就活をやめてしまったんです。そんな折、母親から送られてきた『愛と情熱の日本酒』という本に、若い人が蔵に戻って新しい酒造りに挑戦する姿が描かれていて、めちゃくちゃかっこいいと感動しました。そもそも酒蔵に生まれながら、僕は日本酒をかっこいいなんて思ったことはそれまで一度もなかった。なんでこんな業界が身近にあったのに、東京で働こうとしていたんだろうとの考えに至り、実家に戻ったというわけです。

2.研修後の腕試しで「一歩己」誕生

――その後、経営や酒造りも含め苦労があったかと思いますが、どのように修行したのですか。
矢内:豊国酒造に入社したのが2009年4月、22歳の時でした。先ほど決意を固めて実家に帰ったようなことを言いましたが、いざ戻ってみると東京への未練が残っているし、酒造りは冬の間だけなので、中途半端な気持ちで配達などの仕事をやっていました。10月ぐらいから初めて酒造りを経験するようになりましたが、最初は現場で覚えたというより、当時岩手県から来ていた杜氏さんの仕事をただ見ていたぐらいの感じでしたね。入社から1年経って2010年4月から会津若松市にある福島県ハイテクプラザ会津若松技術支援センターの醸造・食品科に住み込み同然で6カ月間、研修生で入り、そこで初めて教科書的な酒造りを勉強しました。それが僕の酒造りの基礎になっています。本来、県の清酒アカデミーというのは3年間かけてみっちり酒造りを学びます。ところが僕には知識が何もなかったので3年間やっても他の受講生には到底追いつけないだろうと、ハイテクプラザの先生と父親と3人で飲んだ時に酔った勢いでお願いし、その後、半年間の特例研修生として認められました。
――そこで基礎を叩き込まれたということですね。
矢内:基礎を叩き込まれ、研修が終わった2010年10月から豊国酒造で「一歩己(いぶき)」という酒を作ることになりました。父親である社長と醸造責任者だった杜氏さんから「せっかく半年勉強したんだから、何か1本、好きなように作って、好きなように売ってみなよ」と言われたのです。ある意味、ちゃんと勉強してきたかどうか試されていたのだと思います。

3.己の一歩と命の息吹

――「一歩己」の名前はどうやって思いついたのですか。
矢内:僕と知り合いとで作った名前で、「己の一歩を大切にしていきたい」という意味が込められています。1年1年、一代一代の積み重ねが200年近い酒蔵の存続につながっているので、僕も一つ一つを大事に積み重ねていきたいという己の一歩と、「いぶき」という言葉自体が、命が芽吹く「息吹」を表し、自分が歩み出すことで何か新しい命を生み出していきたい、という二つの意味を掛け合わせています。
――酒の名前が決まって、肝心の中身はどういう味にしようと考えましたか。
矢内:もちろん美味しいものを作ろうと思ったのですが、僕が作れる設計図はハイテクプラザで教わったものしかない。大まかな一般例の酒造りだったので、応用も何も僕にはありませんでした。とにかくそれをやってみよう、福島の酒も美味しいものができていると当時言われていたので、教わった通りに作りました。こんな味が作りたいではなく、自分が知っているものを全部出そうと。

4.地元の米と水へのこだわり

――原料はそれまでの酒と一緒だったのですか。
矢内:一歩己で選んだ米は美山錦(みやまにしき)という酒米で、当時の酒蔵でも一部商品に使っていました。実は美山錦は隣町の石川町で昔から栽培されていた米だったのです。自由に作っていいという中で唯一の決まりごとが「美山錦を使え」でした。理由は余っているから。石川町では当初、特産品にする目的で美山錦の栽培を始めたのですが、特産品人気がどんどん下火になってきて、米だけが余る状況になっていました。
――一歩己の開発には美山錦のほか、県のハイテクプラザで開発された酵母と地元の水を使ったとのことですが、水は軟水ではなく硬水ですよね。
矢内:酒造りには軟水の方が向いていると言われますが、この辺りは県内で1、2を争うくらいの硬水ですね。硬水が酒造りに向いていないというのはやはり教科書の中の情報なので、向き不向きはないのではないかとも思っています。米は生産地をずらせば対応できますが、酒蔵にとってはおそらく水が一番変えられない条件の一つ。水こそがアイデンティティそのもので、豊国酒造が使っている水はたまたま硬かったということです。向いているかいないかではなく、僕はこの水を使わなければいけないので使う、この水で酒を表現しないといけないということです。

5.最初の「まずい酒」を売り切る

――狙い通りの味になりましたか。
矢内:それがびっくりするぐらい美味しくなくて。僕もショックを受けました。研修生だった時の先生に飲んでもらったら「お前は半年間何をやっていたんだ」と怒られました。でもまずいのには原因があって、僕が学んだ酒造りでは、使用する酒米が美山錦ではなく山田錦だったのです。そもそも山田錦と美山錦は対極にある酒米で、山田錦が水に比較的溶ける米、美山錦は溶けにくい米。教科書に書いてある溶けやすい米をどうやって綺麗にするか、味わいを出すかという技法を、美山錦という味が出にくい米でやろうとしたので、味が薄い酒になってしまったと。
――それをどうやって修正していったのですか。
矢内:一歩己は2010年の11月、12月ぐらいから作り始め、翌年1月に発売しました。酒造りの中で何年かかけて味を調整していったのですが、最初の一歩己は美味しくありませんでした。当時はタンク1個分しか作らせてもらえず1000リットルを少し超えるぐらいの量。一升瓶で600本くらいの酒全部が美味しくなかった。でも一生懸命作ったので、その思いを皆さんに伝えて全部売り切りました。
――美味しくなくても皆さん、買ってくれたと。
矢内:そもそも一歩己という酒を流通させる時点で、広く浅く売るのをやめました。一歩己という酒を扱いたいと思ってくれる人にだけ、少数限定で出荷し始めようと思っていたので。一軒一軒僕が気になる酒屋さんに行って、こんな思いで酒造りを始めましたと説明してまわりました。
――そもそも売り切れたということは新規の流通開拓に加え、やはりある層には受けたということでしょうね。
矢内:受けたというか、多分響いたのだと思います。味が響いたというより、20代前半の若者がチャレンジして新しい酒を立ち上げた、という物語に共感してくれた部分が大きいのだと。
――その後の味の改良では、どういう点に苦労しましたか。
矢内:そもそも味が薄く、苦いものが最初に出てきてしまうので、どうやって甘みや旨みをより引き出していくか、試行錯誤して作っていきました。酒造りで本当に難しいところは1年で全部オールクリアにならない点。「何か失敗があっても次の年はやり方を全部変えない方がいい。少しずつ変えていって、徐々に自分の中で因果関係を全て掴んでいかないといけない」と他の作り手さんには言われました。ですから2年目でいいものにしようというより、数年かけて完成形に持っていければと考えました。こうして実際に満足のいくものができたのが2020年代に入ってから。当初の予定だとそれが完成形だったのですが、飲んでみた時に何か自分の中で面白くないなと。教科書的には良い酒なのでしょうけれど、教科書にあるのはあくまで山田錦を前提とした味わいでの正解。美山錦の正解はこれでいいのか、甘さが際立った酒でいいのかと思った時に、やはりほろ苦さが大事なのでは思い、また戻り始めました。ようやく2020年ぐらいに大体の形が見えてきて、本当にそれが完成形かと言われるとやはりもう少しという部分はありますが、この道をずっと進んでいけば、とりあえず理想に近づけるところまで見えてきた感じです。

6.甘・旨・苦のバランスで大黒柱に

――今の「一歩己」の味は一口でどう表現すればいいのでしょう。「すっきりした味わい」でしょうか。
矢内: そうですね。甘み、旨みと苦味のバランスが非常に整った酒だと思います。甘みと旨みだけでなく、甘み・旨み・苦みのバランスの取れた酒。あと果実感の香りの部分で、これまで飲んでこられなかった方々に飲んでいただくようになったというのもありますね。
――主力製品は今でも創業以来受け継がれてきた「東豊国(あづまとよくに)」ですか。
矢内:いえ、6年ほど前に逆転して一歩己が主力になっています。一歩己の年間生産量は一升瓶で大体7万本、12万リットルほど。僕が実家に戻った2009年は、東豊国だけで6万本程度、10万リットルくらい作っていたと思います。一歩己を作るようになって徐々にその生産量が増えていきました。それに対して東豊国は少し下がってきていて、純米酒の「超(ちょう)」と合わせた現在の生産量は3万本程度になります。
――こう言っては失礼かもしれませんが、半年間研修を受けて試しに作った酒が今や大黒柱になったと。事情を知らない人からすると、すごくラッキーに見えます。
矢内:実にラッキーですよね。ただ、今同じことをやれと言われたら絶対にできないと思っています。僕が実家に戻った2009年は日本酒を始めるのにおそらくベストタイミングだったのではないかと。当時は全国的に見ても若い方が酒を作っていること自体が珍しかった。それに東日本大震災で非常にネガティブな目が福島に向けられる一方で、僕を含め福島県の若い人がチャレンジしていることに対する社会の包容力も大きかった。そこで一歩己が世に出るきっかけを与えられたと考えています。

7.社員の誇り生み出す

――一歩己の流通はどこの地域にまで広がっているのですか。
矢内:北海道から九州までほぼ全国ですね。昨年、一昨年ぐらいから少しずつ輸出も始まっています。まだ軌道に乗ってはいないですが、チャレンジすることに意義を感じています。それに海外に売っているというだけで、うちのスタッフも地元の方々もみんな喜んでくれるので、そのモチベーションのためみたいなところもありますね。同じ酒造りをしてきたのに、一歩己を作るようになったら、お客様や周囲の評価が良くなってきて、それが社員の誇りにもつながってきています。
――酒造りが人作りの方にも影響してきているわけですね。入社を希望する若い人も増えてきていますか。
矢内:町外から当社に若い方が来るようになったのもそうですし、去年一昨年ぐらいには岡山からこの町に夫婦で移住してきて、旦那さんがうちで酒造りをしたいということで社員になりました。入社希望の電話も増えましたね。

8.地域を結び付ける場づくり

――今の経営では何に一番力を入れて取り組んでいこうとしていますか。
矢内: 10年間酒造りに携わり品質向上に邁進してきたところで新型コロナがあり、日本酒を飲む機会が減ったことで、僕たちが作っているものは必需品ではない、嗜好品の一つに過ぎないと痛感しました。そこでどうしたら我々が皆さんにとって必要なものになるのかを考えるようになりましたね。日本酒の原点を振り返ると、昔から神事や祭祀があり、いろいろな文化的な要素や地域での結びつきがあって、皆さんに生かされ愛されてきた。現代ではそうした行事がなくなり、地域が衰退する中で人の結び付きも希薄になっていった。ですからこの先、地域のつながりを再構築していけば、50年、100年と豊国酒造が地域に必要とされる存在としてあり続け、新型コロナのような感染症が再び起きたとしても危機を乗り越えられるのではないかと、自問自答しながら思い至りました。それがこの「kuranoba(くらのば)」という場所を作るきっかけになりました。
――kuranobaは古い蔵を現代風にリニューアルしたスペースのようですが、コンセプトはどういうものですか。
矢内:元々は大正4年(1915年)に建てられた2階建ての物置蔵で、リニューアルして2022年10月にオープンしました。皆さんに気軽に楽しんでもらえるよう、現代風でカジュアルな空間というコンセプトを打ち出しています。町内外の方にも貸し出していて、いろいろなイベントで使っています。もちろんその一つは日本酒と食事を楽しむという、酒蔵との接点の作り方を提案する場所でもあるのですが、酒蔵とは日本酒を作る場所、酒を買う場所だけではないと思っていて、もっといろんな要素があっていい。例えば英語教室や、夏休みに子供たちが3日間ぐらい集まってみんなで宿題を終わらせる会があったり、大人向けのフラワーアレンジメントのワークショップをやったり、カフェを開いたりしています。今年は陶芸教室も開きました。特に子供たちにとっては「勉強をしたところ」「遊んだところ」というさまざまな酒蔵像が生まれ、身近な存在になりうるのではないかなと。こうした場を通じて、酒蔵と地域の方々、飲み手の方々との接点をどんどん増やしていきたいと思い、取り組んでいます。

9.タンポポの綿毛を飛ばす

――駐車場の隣も芝生が植えられた広場になっていて、建物の壁に大きな絵が描いてありました。かなり目立つ絵ですね。
矢内:あのウォールアートは2023年8月に完成しました。芝生や木がある緑地は3カ月後の11月にできたもので外庭と呼んでいますが、空き地を当社で買い取り、地域に開放しています。ウォールアートは原発事故のあった双葉町を3年ほど前に訪れた際、駅前に同じような絵が描かれていて、それを見て心が動かされたのがきっかけです。原発事故で何もかもゼロになった風景を見に行ったら、この町はまだ死んでいない、息をしているんじゃないか、何かが始まるんじゃないかと絵を見て感じて、その感動をそのままこの場所に持ってきたいと考えました。状況は違いますが、この町だって外の人から見れば単なる山あいの田舎で、否定的な気分で車で通り過ぎる人や、希望をあまり持てないでいる地元の人がいるかもしれない。そういう人たちの気持ちを、僕が双葉町でそうなったように少しでも動かせたらいいなと思い、双葉町のウォールアートを描いた人に直接お願いしました。
――絵の内容は何を表しているのですか?
矢内:絵の手前の部分にタンポポの綿毛を飛ばすシーンがあります。そのタンポポがわくわくとか楽しさとか夢の象徴で、絵の一番右奥には宇宙が描いてあります。宇宙は非常に遠い場所ですが、決して行けないところではない。努力と熱意、それに運があったら行けるかもしれない。届きそうだけど届かない。でも届くためにとんでもない努力が必要な場所が宇宙で、そうした目標に向かって思いを持って行動をしていこうと。まず行動することが綿毛を飛ばすことで、その綿毛が宇宙に向かって飛んでいく。そこで花を咲かせるかもしれないし、別の場所で花を咲かせて、また違う誰かが綿毛を飛ばしてくれる、という意味を込めた絵です。一歩己のお客様の中にはこの絵の内容を飛躍して解釈したり、壁画のある酒蔵だよね、この前イベントをした場所だよねと言ってくれたり、結構知られるようになりました。以前は「震災を経験して僕が作ったお酒です」というストーリーしかなかったのですが、今は味わいを増すようにさまざまなものが豊国酒造の酒に加わってきています。